孫息子の運動会の応援に行ってきた。
よく晴れて 爽やかな風が吹いて 気持ちのいい日。
かけっこの距離が去年より長くなり カーブもあったけど 上手に走っていた。
親子競技では ママと一緒にラーメン作り。
麺を入れて ナルトをのせて 海苔をのせて トレイにのせて出来上がり!
JALの 「キッズおでかけサポート」 で 千葉の孫娘が一人でやってきた。
到着口で待っていると CAのお姉さんに連れられて にこにこ笑顔でやってきた。
「ちょっと揺れて 身体がフワッと浮いたよ。」
よく がんばったね。
ビーズで作った携帯ストラップを 「敬老の日」のプレゼントに持ってきてくれた。
自作の 「えほん」 も 持ってきてくれた。
(表紙) えほん (女の子の絵)
1ページ (女の子とドレス2枚の絵)
2ページ
むかしむかし かわいいおひめさまがいました。
そのこは、おうじょさまになりたいというけっしんを しました。
でも じょうおうさまよりきれいに なれません。
そうです。
おひめさまは どれすがあんまりないんでした。
そして めいくもしました。
でも だめです。
だから うたもうたいました。
やっと にんきものになりました。 (歌っている女の子の絵)
3ページ
(1ページより豪華なドレスを着た 女の子の絵)
4ページ
そして またきがえたら、ますますにんきものになりました。
そして 「みんなのはーとをくださいな。」 と いいました。
いっぱい はーとが、でてきました。
(マイクを持って歌っている女の子と 羽の生えたハートの絵)
そして かみのけのいろをかえました。
5ページ
(緑色の髪の毛の女の子が お星様の飾りが一杯付いたドレスを着て 歌っている絵)
6ページ
そして ついには アイドルデビューしました。
しんぶんにものりました。
そして やっと王女になれました。 おしまい
(裏表紙)
(王冠を被った緑色の髪の毛の女の子)
一生懸命作った大事な 「えほん」 を見せてもらって おばあちゃんは大感激。
でも 「赤毛のアン」 みたいに 髪を緑に染めるのは・・・
「えほん」 の中だけに しておいてね。
朝早く起きて朝食も済ませたが 見物コースの最初の時雨殿は10時開館。
ゆっくり出かけて いろいろゲームをたのしんで 渡月橋をバックに記念撮影。
次は 金閣寺。
ピカピカと光る金閣は 一年生と外国人には好評なようで いろんな言葉が飛び交う中 人の隙間から撮影。 孫娘と金閣だけを写したかったのに・・・
次は 和菓子屋さん。
孫が東京のテレビで見たそうで カウンター席の目の前で和菓子を作ってもらって そのお菓子とお抹茶をいただいた。
あんこの丸いお団子に 職人さんが竹の棒を器用に使って 菊の花びらのような筋を付けていく手元を 孫は一心に見つめていた。 目の前で出来上がったお菓子を戴くのは 格別な気分。
甘いお菓子の後は お抹茶。
神妙な面持ちでいただいていたけれど 後で聞いたら 「にがかった・・・」
後は 四条に出て お留守番の妹やお母さんへのお土産を買って 家に帰ったのは夕方。
あちこち回って おばあちゃんは疲れたけど 一年生は元気。
明日は 清水さんの舞台を見に行く予定。
「清水の舞台を見たい。」 という孫娘の希望で 清水さんへ。
綺麗な塔や門を見て 「清水の舞台」に立ち 下を眺めて 「高~い!」
下りて見上げて 「高~い!」
舞台から眺めた 音羽の滝 には 長い行列ができていた。
折角来たのだからと 列に並んで30分ほどかかって ようやく滝に辿り着いた。
長い柄の柄杓で水を受け 口にした孫は 「冷たくて おいしかった!」
三年坂から二年坂を下る途中で 抹茶ソフトを食べたり 可愛いお土産を買ったり。
たっぷり歩いて 疲れたようだったけど 家に着き 明日帰る支度を始めると 妙にハイテンション。 電話で妹や両親と話す声も弾んでいる。 やっぱり お家に帰るのが嬉しいのね。
朝 目覚めると雨の音。
丁度 水遣りをしなければ・・・と思っていたので 好都合。 身体の疲れも残っているので 今日は お疲れ休み! と決めて ゆっくり過ごす。
昼過ぎには小降りになったが どんよりとした雲。 孫娘が お日様まで持って帰ったみたい。
庭でうろうろしていると 3時過ぎに 頭の上を何かが通った。
急いでデジカメを取りに入ったけれど 後姿しか撮れなかった。
調べてみると 「ドコモ関西号」 のよう。 北から南へ 我が家の真上を通っていった。
飛行コースから少し外れているようだけど どうなのかしら・・・
もうすぐ3歳の孫息子がやってきた。
お誕生日には自転車が欲しいようで 今日買いに行くらしい。 それなら ちょっと練習しようと出してみたが 補助輪付きだけど ボクにはちょっと大きすぎ。
ぎりぎり足が届くくらいで 最初はペダルがこげなかったが すぐに慣れて 一人でスイスイ。 菊棚の横を曲がってキンモクセイの植え込みの周りを 上手に回れるようになった。
風が冷たいから中に入ろうと誘っても なかなか入ってくれない。
「暑くなってきた!」
頑張りすぎだよ。 風邪ひかないでね。
いつもの六年生五人組から招待状をいただいて 見に行ってきた。
劇のタイトルは 「走れメロスのように」
のように? 不思議に思っていたが 六年生たちが 「走れメロス」 の世界にタイムスリップ(?)するお話。 メロスと一緒に走って メロスを助けたりして 最後は感動のフィナーレ。
六年生ともなると 声も大きく よく通って 台詞も自然な感じで 見ごたえがあり たのしかった。
おじいさんが 来週 六年生たちに「戦争体験」を話すことになり 資料作りを引き受けた。
おじいさんの話を聞いたり 分厚い「連隊史」を調べたり ネットで地図を探したり。
最近 「硫黄島からの手紙」のCMが流れているので 六年生たちも 少しは「戦争」というものを理解できるかしら。
おじいさんたちも玉砕を覚悟していて いくら食糧難に陥っても 最後に食すために 一食分のお米は最後まで守り抜いた という話は 飽食の時代に生まれた六年生には 理解できないかもしれない。
それより いつもニコニコと庭の手入れをしているおじいさんが 60年前には 南の島でアメリカ軍相手に戦っていた ということの方が 信じられないことかもしれない。
下書きを印刷して おじいさんに見てもらって あれこれ書き直す。
ほぼ仕上がったので おじいさん用の印刷。 子供たちに配るものの 倍くらいのサイズの文字で印刷。
地図四枚と合わせて 十枚になった。
「トラック島からの生還」 私の戦争体験談
・ 日本を出発
・ 日本からトラック島へ
・ トラック島に上陸
・ トラック島大空襲
・ 終戦
・ 最後に
六年生用は 五枚に収まる程度。
二十分くらいのお話をして あとは質問 という予定なので それくらいの量でいいのかな。
足りない分は おじいさんが合間に付け加える・・・ということで 決めた。
明日 印刷すれば 完成。
毎年 12月9日、10日は 鳴滝 了徳寺さんの大根焚(だいこだき)。
大根焚(だいこだき)とは 750年前の親鸞さんとのご縁から その名で広く知られるようになったものです。
了徳寺さんには 親鸞さんが庭先のススキの穂で形見に残された 「帰命尽十方無碍光如来」 (きみょうじんじっぽうむげこうにょらい) の「すすきの御名号」のお軸と 「すすき」の塚が代々大切に守られて 今も拝見することが出来ます。
くわしくは 了徳寺さんのホームページで どうぞ。
お昼過ぎに おじいさんが戦争体験を話しに 小学校へ。
一時間ほどで終わる予定が 帰ってきたのは二時間後。
話の前後に 児童代表や校長先生のご挨拶があったり お茶やお菓子をいただいたりで なかなか大掛かりな行事だったらしい。
準備したプリントを読むだけでは 十分ほどで終わりそうだったので 地図の説明や 合間に細かな話を入れて 三十分ほど話したとのこと。
六年生たちは静かに熱心に聴いてくれたようで おじいさんはご機嫌。
資料が役立ったようで 私も うれしい。
次は 年賀状の準備。
今年も 花の画像一杯のものがいい とのご注文。 雨の日と夜に 頑張ろう!
孫娘のために縫った着物の残り布で お人形の着物とリボンを作った。
「サリーちゃん」というのは 孫娘がつけた名前。
サリーちゃんは お洋服とリボンのセットを二種類持っていて 十月に来た時 孫娘が気に入って何度も着せ替えて遊んでいた。 先日の電話で 「あのお人形を送って欲しいんだけど・・・」 と言っていた。
お正月用の着物姿で 送る予定。
孫娘二人の着物と サリーちゃんの洋服セットも一緒にね。 よろこんでくれるかな。
明るい間は ずっと庭で頑張っていたので 疲れて眠くなったが 孫娘たちの写真が届いたので 目が覚めた。 かわいい!
下の孫は 着物姿なのに なぜかバレエのポーズ。
二人とも喜んでくれたようで おばあちゃんもうれしい。
写真を印刷したあと 私の年賀状も ようやく印刷できた。
運転免許の更新に行ってきた。
相変わらず大勢の人で あちらに並び こちらに並び・・・ 空いているのは「安全協会の窓口」だけ。
当然のように 「次は 3番の窓口に行って下さい。」 と言われたが 素通りなさる方が多く 私も パス。
最近 小さい文字が読み難くなって 視力検査が心配だったけど すんなり通った。 よかった~ 遠くは見えるのね。
30分の講習を受けて 新しい免許を受け取った。 5年間は 身分証明に使える。
ところが 写真を見て がっくり。
シワまで写ってないのに 表情というか雰囲気というか・・・ 5年前より間違いなく老けている。 ふっくらしていた頬が たるんでいるというか 垂れているというか・・・ どう見ても 「おばあちゃん」の顔。
気持ちだけ「若いつもり」 では ダメなのね。
やっぱり 納豆を食べなければ!
帰りにスーパーに寄ったら 納豆の棚だけ空っぽ。
そういえば 先日テレビで「関西のスーパーでも 納豆が品切れ。」 と言っていた。
「あるある」を見た次の日に 1日2パック食べるつもりで買い込んだのが 少し残っている。 嫌いではないが 「食べられないことはない。」という程度で 元々 毎日食べる習慣が無いので 1日2パックは無理。 朝はパンなので 夕食に1パックしか食べられない。
今夜も食べて あと1パックしか残ってないので その後は どうしよう。
ブームが終わった頃に 毎日食べ続けてみようかな。
ダイエットと若返りに効果がある というのが 本当だったらいいのだけど。
鹿ケ谷へ お花見に行ってきた。 ツバキが主目的 サクラは ついで。
法然院と霊鑑寺で ツバキの花をたっぷり拝見。 30種以上の写真を撮ってきた。
法然院では 狩野光信と堂本印象の襖絵も拝見したが こちらは撮影不可。
建物やお庭のあちこちに 説明してくださる方々が居られて お話もたっぷり伺った。
法然院には大きく育ったヤブツバキが多かったが さらに大きく育った木々の陰になっていて 暗すぎて撮れなかった。
あんまりツバキが多いので 先々代の御住職が嘆かれたとか
掃きよせて 椿ばかりや法然院
霊鑑寺では 主立ったツバキには木札に名前を書いて下げてあったので 花と名札を撮ってきた。
朝早く出かけて お昼近くまで たっぷりと楽しんできたが 本当は もっとゆっくりと見たかった。
与謝野晶子は 一日中 眺めていたのかしら。
鹿ケ谷 尼は「けい」うつ椿散る
鶯啼きて 春の日くれぬ
「けい」の音は聞けなかったが ウグイスの声は聞こえた。
「けい」の文字の出し方が分からない。 「けい」というのは 「磐」の左上の「舟」を「声」に変えた字で 昔 石を「へ」の字形に作り 吊り下げて打ち鳴らした楽器のこと。
ツバキをたっぷり見たので サクラは帰りに哲学の道を横切る時 パパッと撮っただけ。
哲学とは程遠い人混みだった。
昨日 息子夫婦の第二子が無事誕生。
とっても可愛い孫娘。 私にとっては 四人目の孫。
赤ちゃんを見るのは久し振りなので 標準体重なのに とっても小さく見える。
小さな手足を動かしているのを見るだけで 愛おしく 泣き声も可愛くて 寝顔は天使のよう。
生まれてきてくれて 本当にありがとう。
妙蓮寺さんに電話でお尋ねしてみると 「ツバキ 咲いてますので どうぞ お参りください。」 とのこと。
早速 デジカメを持って出かけた。
案外小さな木だったが 初代は火事で消失して これは二代目とか。
木の下枝に下がっている紙は このツバキの苗を頂けるとのご案内。
6000円也をお納めすると 「証明書付きの苗を領布」していただける らしい。
私は 入場無料の境内で 無料で撮影させていただいた。
立て札には 説明書き。
余の花は みな末寺なり 妙蓮寺 宗祇
この椿こそ 「花の ご本山」 ということなのかしら。
妙蓮寺さんの帰りに 北野の天神さんで 大福梅をいただいてきた。
カラカラに干された梅干で お正月の縁起物。
新しい年の招福息災を祈って お白湯に入れていただく らしい。
話には聞いていたが 初めて頂きにお参りした。 ご利益をいただきたい。
天神さんは学問の神様 ということで 「ブログのエントリーフッターが 上手く直せますように!」 と お願いしてきた。
境内のあちこちにある「牛」の像の頭もなでてきた。
「牛」は天神さんのお使いで なでるとご利益がある と聞いている。
これ以上 頭の老化が進みませんように!
東京から息子一家四人が来ていたので 庭仕事もパソコンも休んでいた。
去年の夏に生まれた孫娘とは その時以来 久し振りのご対面。
最初は 「こんな人 知らない・・・」 と泣かれたが すぐに笑顔を見せてくれた。
ぷくぷくと元気そうで よく笑い 四歳のお兄ちゃんが大好きで 話しかけられると手足を動かして喜んでいる。
とっても可愛いのだけど 「はい チーズ!」 とポーズをしてくれないので シャッターチャンスが上手く掴めない。
おじいさんの指を握りながら眠っているところを パチリ。
赤ちゃんを見ていると 「命のリレー」というようなものを感じる。
写真も残ってないご先祖さんから 顔を見ることも出来ないような子孫の間で 「命のバトン」を握っている間は 私も精一杯 生きなければ。
春の特別公開ということで 孫と一緒に拝観に。
今年は冬が長かったので春の花が遅れ気味のよう。 八重散椿は散った花びらが少なく 去年は終わっていた八重紅梅が今年は満開だった。
出かける前に我が家で咲いている「日光」の花を見せて 「この花の咲く大きな木やアセビの大きな木があるのよ。」 と話しておいた。
アセビは咲いていたが 咲いているツバキの種類は去年より少なかったような気がした。
パソコンが不調でブログにアップできないかもしれない・・・という気もして あまり撮影してこなかった。
孫は アセビの木の大きさに驚いたり、 家でも「日光」の花を見たことや 一人で飛行機に乗って東京から来たことなどを 庭の説明をしてくださったおじさんに話したりして 結構たのしんでいた。
京都 八幡市 松花堂庭園に ツバキを見に行ってきた。
展示会場までの園路の両脇には 竹が多く植えられていたが 桜も咲いていた。
八幡市の石清水八幡宮の孟宗竹は エジソンの頃から有名。
つばき展の会場でも 竹に生けられたツバキをたくさん撮ってきたが 画像の整理は明日以降。
「松花堂弁当」発祥の地 ということで 園内の吉兆で「松花堂弁当」を頂きたいところだったけれど 孫が一緒だったので 大きな石のベンチに座って おにぎりやサンドイッチ。 ちょっと残念。
「朝から雨」という予報が見事にハズレ。
明るい日差しの中 鳴滝 了徳寺さんの「大根焚(だいこだき)」にお参り。
いつもながら大勢のお参り。
帰りに すぐ近くの仁和寺へ。
こちらの「二王門」は 知恩院の「三門」、南禅寺の「山門」と共に 京都の三大門と呼ばれている。
仁和寺は光孝天皇により発願 宇多天皇により仁和四年(888年)に完成されたが 応仁の乱により全山焼失。 寛永11年に再興された。 寺格は高く 筋塀は最高位の「5本線」。
「金堂」は 桃山時代に建てられた京都御所の紫宸殿を江戸時代初期に移築し 現存する最古の紫宸殿の遺構で 当時の宮廷建築を今に伝える貴重な建造物であり 国宝に指定されている。
遅咲きの御室桜が有名な仁和寺には 何度かお花見に行ったことはあるが 今回の目的は「キリシタン灯籠」。
「仁和寺の九所明神には 三つのキリシタン灯籠がある。」
と ネットで見つけたから。
九所明神は 金堂の東の林にあり 確かに織部型の石灯籠が三つ並んでいた。
ただ 織部型は埋けこみが特徴なのに こちらの灯籠は基礎の上に乗っている。
九所明神は仁和寺の建つ土地の鎮守のために建てられたが 応仁の乱で消失。 寛永年間に再興された。
「守護神として八幡、加茂、山王、天神、稲荷、松尾、平野、小比叡、大原野、九座のご神体を勧請したもの」 とのこと。
火袋の窓は前後が四角で 左右は円と三日月形。
石灯籠は 一つとか一対が普通のように思うが こちらは三つ。
一対プラス1 ということかしら。 それとも 九社を三つに分けて 三社に一つ?
こちらの灯籠の竿石の部分には 「マリア像」ではなくて文字が彫られている。
「九所大明神 御寶前」 その下は指でなぞってみてもよくわからなかったが 「寛永?年 ?月吉日」 かしら。
織部型灯籠を全て「キリシタン灯籠」と呼ぶことには異論もあるらしい。
この石灯籠は どうなのかしら。
曼殊院のお庭でキリシタン灯籠と共に有名なのは 梟(ふくろう)の手水鉢。
丸い鉢の四箇所に浮き彫りされている。
分かりにくいが丸い頭部の下に 尖ったくちばしが見える。
この手水鉢は小書院入り口の縁先にあるが 縁側からは少し離れた位置にあり 水鉢は傾いている。
水面に浮かぶ月を部屋に取り込むという趣向のようで 建築の様式と共に桂離宮との類似が見られる。 下の台石は亀 傍の石は鶴をかたどっている とのこと。
遠州好みの枯山水。
石橋の右に立つ背の高い石が 滝石。 そこから流れ出る白砂の水が水分石から広がり 鶴島と亀島がある。 左手の築山には三重の層塔があり 桂離宮の中島に建つ層塔を思い出した。
御室の仁和寺で三つの織部型灯籠を撮った後 まだ雨は降りそうになかったので 修学院離宮近くの曼殊院へ向かって 京都を西から東へ横切る。
目的の灯籠は大きく伸びた五葉松(樹齢400年)の根元に有った。
鶴・亀二つの島のうち鶴島と呼ばれる島にあり 五葉松は鶴をかたどっている。
受付でいただいた説明には
「松の根元にはキリシタン灯籠があり クルス灯籠又は曼殊院灯籠と呼ばれる。」 と書かれていた。
今度は間違いなく 「キリシタン灯籠」
曼殊院がこの地に移ったのは明暦二年(1656年)で 桂離宮の創始者智仁親王の御次男良尚法親王の時。
そのため 建築、庭園の様式に桂離宮との類似が多いらしい。
良尚法親王は 桂離宮の「笑意軒」の扁額をお書きになっている。
こちらのキリシタン灯籠は 桂離宮の キリシタン灯籠 その2 とは竿石のふくらみ部分の形が違っている。
前後左右の四方に円盤状の突起が見える。
良尚法親王の母である常照院はキリシタン大名である宮津藩主京極高知の息女であり この石灯籠は母からの贈り物と言われている。
曼殊院は修学院離宮の少し南にあり お庭の紅葉は葉を落としていたが 山々には彩りが残っていた。
修学院離宮にも一つキリシタン灯籠があるようで 拝見したいのだけど 桂離宮の倍ほど歩くようなので 足がちょっと心配。
今回は もう一つの織部型灯籠を拝見するために 南禅寺 金地院へ向かって南下。
南禅寺に着く頃に小雨が降りだしたので 目指す石灯籠だけを拝見してきた。
お天気が良ければ いろいろ見たい所もあったのだけど・・・
以前は北山にあった金地院を 慶長の初め南禅寺塔頭に移建したのが 金地院崇伝。
方丈は 慶長16年に崇伝が伏見桃山城の一部を家光より賜り移建したもの。
方丈南庭は小堀遠州作庭の確証あり 「鶴亀の庭」と名付けられる。
桃山時代の風格を備えた 江戸初期の代表的枯山水庭園。
その庭の中央近くに 織部型灯籠がある。
確かに 竿石には左右のふくらみが見える。
方丈前面には白砂が広がり 正面にある長方形の巨大な平石は東照宮の遥拝石。
その左には亀島があり 海に潜ろうとする亀を表わしている。
真柏(ミヤマビャクシン)のジンが素晴らしく 樹齢700年以上と言われている。
右には鶴島があり 巣篭もりの鶴を表わしている。
遥拝石の右に見える長い石は鶴の首からクチバシまでを表わし 「嘴石」と呼ばれている。
崖地を利用した蓬莱石組の背後の木々はそれぞれ丸く刈り込まれ 連なる山並みを表わしている。
素晴らしいお庭を眺めながら 大きな疑問が消えず お寺の方にお尋ねしてみた。
「どうして こちらのお庭に キリシタン灯籠とも呼ばれる織部灯籠があるのでしょう?」
「よく尋ねられますが あの灯籠の竿石には何の彫り物もなく キリシタンとの関連は無いものと 私共は考えております。」
ごもっともなこと。
そもそも 僅かでもキリシタンとの関連を疑われるのなら そのような石灯籠を庭に置くことを 「伴天連追放文」を起草した「黒衣の宰相」金地院崇伝が 許すはずが無い。
小堀遠州にしても 命を懸けてまでそのような灯籠を置こうとも考えないだろう。
やはり 織部型石灯籠=キリシタン灯籠 ということではないのだろう。
桂離宮と曼殊院のキリシタン灯籠は 「特別」 ということなのかしら。
北野の天神さんへ大福梅をいただきに行く前に 近くの大徳寺塔頭 瑞峯院で 「キリシタン灯籠」と「十字架の庭」を拝見。
瑞峯院は 室町時代のキリシタン大名 大友宗麟が創建。
方丈は 天文四年(1535)に建造。
大友宗麟は 天正十年(1582)年に少年使節団をローマに向け送り出している。
方丈前の「独坐庭」は 寺号:瑞峯をテーマにした蓬莱山式庭園。
1961年 作庭は重森三玲(1896-1975)。
方丈裏の「閑眠庭」は「十字架の庭」とも呼ばれ 中庭にあるキリシタン灯籠を中心に七個の石組(縦に四 横に三)の流れが十字架に組まれている。
画像は 十字架の下から見上げる様子。
1961年 作庭は重森三玲(1896-1975)。
十字架の縦方向の延長線上(手前)にキリシタン灯籠がある。
中庭の隅に ひっそりと建てられている。
受付でいただいた解説にも「キリシタン灯籠」と書かれているので 間違いなく 「キリシタン灯籠」
灯籠の裏側には 桂離宮 外腰掛の二重桝形手水鉢によく似た手水鉢が置かれていた。
火袋左側には丸 右側には三日月形の窓がある。
竿石は深く埋められているので分かりにくいが レリーフは見えない。
左右の膨らみの部分にも 何も彫られていない。
北野の天神さんへ大福梅をいただきに行ってきた。
「大福梅」 (去年)
大きな一の鳥居をくぐり きらびやかな三光門の近くにはキリシタン灯籠があるのだけど まずはお参り。
拝殿の鈴の向こうにある鏡に姿を映して 「ホームページ作りを頑張ります!」 と 天神さんと鏡に映る自分自身に誓ってきた。
デジカメで撮りながら 「写真が上手になりますように!」 と お願いした。
枚数だけは頑張って撮っているので あとは ひたすら神頼み。
鈴の上 梅鉢の御紋の上には 「立牛」。
天神さんのお使いである「牛」の像は 境内のあちこちに沢山あるが どれも 臥牛像ばかり。
ただ一頭 この牛だけが足を立てている。 「北野の七不思議」の一つ。
「北野の七不思議」 (北野天満宮のホームページ)
牛の像をなでるとご利益がある 特に天神さんは学問の神様なので 頭をなでると知恵をいただける と 京都の子供は教えられる。
お年寄りは腰や足もなでられるので いつ見ても牛の像はピカピカ。
親子牛の像もあり 親に甘える子牛が可愛い。
三光門の手前を右(東)に曲がると左手に 織部型石灯籠が見える。
「マリヤ像の彫刻あるにより 俗にマリヤ灯籠 切支丹灯籠ともいう」
立て札に書かれていた。
「俗に言う」 キリシタン灯籠に間違いない。
前には 火障りと言うより灯籠自体を隠すようにナンテンが大きく育っている。
火袋の正面は四角 左面には丸 右面には三日月形の窓があり 実際に火を灯されるためか 風除けにガラス障子がはめ込まれている。
障子が外れないように セメントのようなもので周りを固めてあるので 三日月が 大きな口を開けて笑っているようにも見える。
竿石にはマリア像のレリーフが見えるが ふくらみ部分には何も彫られていない。
レリーフがマリア像と言われ 織部灯籠とキリシタンとの関連が言われ始めたのは 大正時代のことらしい。
噂では 北野さんもこの灯籠の扱いに困られたようで 土中深く埋められたとか古道具屋に売り払われたとか聞いた。
再び同じ場所に立て直されたようだけど 天神さんはどのように思っておられるのかしら。
やっぱり ナンテンは欠かせない のだろう。
天神さんは学問の神様だけど 境内にある大黒さんの石灯籠は金運のご利益が有る らしい。
大黒さんの頬のえくぼに小石を乗せて 上手く止まった小石をいただいて財布に入れておくと お金が増えると言われている。
欲張って大きめの石を乗せたら 落ちるばかり・・・ 大金には縁が無いらしい。
ごく小さな石が止まったので いただいて財布に入れておいた。
金運を願う人が多すぎて 大黒さんのえくぼが妙に大きくなっている。
三光門の東 キリシタン灯籠の向かい側。
三光門をくぐった右手にある 渡辺綱の石灯籠 立派な銅板ぶきの屋根で守られている。
渡辺綱は平安時代中期の武将。 一条戻り橋で鬼を退治できたのは北野天満宮の大神のおかげ と石灯籠を寄進したと伝えられる。
現在の石灯籠は鎌倉時代のもので2代目。
大きな楼門の左右に立つ青銅の灯籠。
延寶五年(1677年)というから 300年以上前のものなのに とても綺麗。
岩上通り(堀川の一本西)四条下る西側にある 町屋風の建物。
「南蛮寺跡 キリスト教文化資料館 フランシスコの家」
その前に立っているのだから 間違いなく キリシタン灯籠。
この付近には元々 妙満寺というお寺があったが 1583年に秀吉により寺町二条に移されていた。
その跡地を 秀吉からフランシスコ会に与えられたのは 1593年。
教会の他 修道院や病院も建てられて 付近にはキリシタンたちが住むようになった。 その土地は 「だいうす町」と呼ばれ 教会は 「南蛮寺」と呼ばれた とのこと。
「フランシスコの家」 の前に立つキリシタン灯籠には 手足のある人の形なのか ケープかガウンのようなものを着た人なのか これまで見たキリシタン灯籠とは全く違ったレリーフがある。
左右の膨らみの部分には何も彫られていない。
火袋の左は丸形 右には三日月形の窓が見える。
「まだ咲いています。」と聞いて デジカメを持って出かけた。
今年は 早めに咲きだしたらしい。
以下 説明文より
平成9年2月 : 平等院鳳凰堂南背後部の庭園発掘中 室町時代に堆積した池底の泥中から土器や瓦、枝や他の種子などの植物体とともにツバキの種子が出土。
平成9年5月 : パックに封入して保存していたところ 発芽を確認。
平成9年8月 : 記者発表を行ない「室町椿」と命名。
平成9年9月 : 平等院の依頼により宇治市植物公園で栽培管理を行なう。
平成11年7月 : 危険分散のため平等院の許可を受け 山口三十治氏の指導のもと サザンカにツバキ「越前紅千鳥」を接いだものを台木として 腹接ぎを行なう。
以後 実生株と接木株を宇治市植物公園で管理する。
平成14年9月 : 接木株に着蕾を確認。
平成15年4月7日 : 接木株が始めて開花。 以後8番花まで開花する。
平成15年3月 : 実生株を平等院に返却。
以後 今日に至るまで毎年開花が見られた。
開花日は年によって大きく異なり 12月末日から咲くときもあれば 3月になって漸く咲くときもみられた。
紅色 一重 盃状咲き 太い筒しべ 中輪 というところかしら。
花形は平たい感じで大きめ 花びらの形は横幅が広く 反るように開いている。
雄しべの本数が多く 蕾は丸く 開き始めは花色が濃い ように見えた。
植物公園の方のお話では 蜜の量が多い とのこと。
600年ほどの間 よく種子が命を保っていたものだと 感動。
ハスと違ってツバキの種子は皮が薄いので種子としての命は短いらしいのに よほど条件が良かったのだろう。
鉢に植えられて 広いホールの窓際に飾られていたので 背景や光の具合が撮影には条件がよくなかった。
残念に思いながら 一応撮り終わった頃 テレビカメラやレフ板を持った取材らしき方々が来られた。
京都テレビの方々で 植物公園の方に説明を受けられているのを 私も隣で聞くことが出来た。
その上 撮影するのに室町椿の鉢を台車に乗せて外のテラスに出されたので 明るい日差しの下で私も撮影することが出来た。
長い眠りから目覚めた「室町椿」を見ることが出来て テレビ局の取材や撮影風景まで見られて なかなか面白い一日だった。
園内で桜が咲いていると教えていただいて 花木園に向かう。
ソメイヨシノのような派手さはないが 可愛い花が咲いていた。
一枚目は 「冬桜」 二、三枚目は 「十月桜」
サクラ 「冬桜」 : 開花期は晩秋から初冬。 オオシマザクラとマメザクラの交雑種と推定されている。
別名:コバザクラ (小葉桜) 群馬県鬼石町の桜山公園では「三波川の冬桜」として天然記念物に指定されている。
サクラ 「十月桜」 : マメザクラとコヒガンザクラ(小彼岸桜)の雑種。 花は淡紅~白色八重で 一年に4月と10~12月頃の二回咲く。 別名:御会式桜(オエシキザクラ)
「十月桜」は 2007年12月に「妙蓮寺椿」を拝見に行った妙蓮寺さんでも咲いていた。
妙蓮寺さんでは 別名の「御会式桜」で呼ばれている。
「寒紅梅」と書かれていたような。
ふんわりと優しい 八重の白梅。
菜の花が綺麗に咲いていた。 黄色い花は春を思わせる。
修学院離宮の参観に行ってきた。
門前に着くと 立派な門冠りの松の下は工事中。
外周は石垣の上にカシの生垣が続いていて 途切れた辺りからは比叡山が近くに見えた。
工事中のフェンスの隙間からは 新しい門柱や竹垣が見えた。
桂離宮の御成門のような丸い門柱は ヒノキだと教えてもらった。 25年毎に新しくされるとかで これほどの材を探すのは大変だったとか。
桂離宮の 「御成門」
修学院離宮
下離宮
・表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
上離宮の隣雲亭で見た石灯籠。
3月10日追記
修学院離宮にお電話して教えてもらった。
この石灯籠は「山寺灯籠」と呼ばれている とのこと。
上離宮で見た「滝見灯籠」と呼ばれている石灯籠。
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
・山寺灯籠、滝見灯籠
中離宮の楽只軒前庭で見た キリシタン灯籠(織部型石灯籠)
修学院離宮参観の目的は この石灯籠を見ること。
苔むした笠石は美しく 竿石などの側面は綺麗なのに ふくらみ部分の表面は妙に汚れている。 何か彫り物が有って 雨水などで傷んだのかしら。
下にはレリーフが見えるが 頭部が尖っているように見える。
桂離宮のレリーフは 頭部が丸かった。
桂離宮の 「キリシタン灯籠」
3月10日追記
修学院離宮にお電話して教えてもらった。
「竿石のふくらみ部分には アルファベット三文字が重なるように彫られています。」 とのこと。
中離宮の楽只軒付近で見た石灯籠。
3月10日追記
修学院離宮にお電話して教えてもらった。
「埋け込み灯籠」と呼ばれている とのこと。
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
・キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
表総門で参観許可証のチェックを受けて敷地内に入り 参観者休所で時間まで待機。
掲げられている絵図を見たり ビデオを見たり。
絵図は東を上に描かれていて 左下が表総門に続く下離宮 左上が上離宮 右は中離宮。
三つの離宮の間を繋ぐのは 御馬車道とも呼ばれる松並木。
その左右には田畑が広がっているが 東山山麓ということで標高差が40メートル近くあり 階段状の棚田が美しい。
石段の上にある板戸の門が御幸門で 屋根は柿葺き 板戸の上部には後水尾上皇お好みの花菱紋が透かし彫りされている。
門をくぐると左手に御輿寄が見えるが 右手の庭へ向かう。
袖形灯籠が右手に見え 左手には朝鮮灯籠を見ながら苑路を上り 更に進むと櫓形灯籠が見える。
袖形灯籠・朝鮮灯籠・櫓形灯籠
どれも変わった形の石灯籠で ゆっくりと眺めたかったが 案内の方を先頭に一列に進み最後尾には皇宮警察の護衛付きというのは 桂離宮と同じ。
修学院離宮
下離宮
表総門
・御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
「寿月観」の扁額は後水尾上皇の宸筆。
花菱紋の欄間の下の襖には 虎渓三笑の絵が岸駒(がんく)により描かれている。
東の窓からの眺めは素晴らしく 特に紅葉の頃が美しいとのこと。
一間半の床の間の横には琵琶床と飾り棚があり 棚の戸袋には鶴の絵 地袋には岩と蘭が描かれているが 筆は原在中。
夕顔の描かれた杉戸は光格上皇のお好みで 仙洞御所から移されたと伝えられている。
杉戸の内側は お水屋。
東門から出ると広い田畑と松並木の向こうに東山連峰が見え 上離宮へ向かう道と中離宮へ向かう道の三叉路に出る。
先ずは 右手の中離宮へと向かう。
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
・寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
中離宮表門の向こうには 可愛い梅が咲いていた。
中離宮は後水尾上皇の第八皇女光子内親王(朱宮)さんのために建てられた とのことで ヤブツバキも何本か咲いていた。
広い苔庭の中央には 傘のように枝を広げた松があり その名も「傘松」。
3月10日追記
修学院離宮にお電話して教えてもらった。
「傘松の付近に 小さな置き灯籠があります。」 とのこと。
ヤブツバキの株元にある小さな滝からの流れが庭を巡っていて 石橋や様々な植え込みが親しみの持てる庭。 豪快な石組みや 一部の隙もなく整えられた刈り込みや松などの庭と違って このような庭なら一日眺めていても疲れないように感じた。
「楽只軒 らくしけん」と呼ばれる建物の前庭に キリシタン灯籠(織部灯籠)と もう一つ石灯籠があった。
キリシタン灯籠(織部灯籠)
楽只軒に続く客殿の濡れ縁には 「網干の欄干」と呼ばれる魚網を干した形を表わす 低い手摺があり 欄間には波の模様が見える。
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
・楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
客殿は 東福門院(後水尾上皇の皇后、徳川秀忠の娘)亡き後 女院御所の奥対面所を光子内親王のために移築されたもの。
一間半ある飾り棚は「霞棚 かすみだな」と呼ばれ 桂離宮の「桂棚」、三宝院の「醍醐棚」とともに「天下の三棚」と称されている。 霞がたなびくように見える。
戸袋には更紗模様、地袋には友禅染、引き手は羽子板の形で 華やかな雰囲気の作りになっている。
杉戸には祇園祭の鉾が描かれ 住吉具慶の筆と言われている。
3月10日追記
修学院離宮にお電話して教えてもらった。
「鉾の杉戸の横辺りに 手水鉢があります。」 とのこと。
手水鉢も探したつもりだったが 一つも見つけられず 残念。
鯉の絵は作者不詳だが 表裏に二尾と一尾が描かれている。
その鯉がよく逃げ出したので 円山応挙が網を上から描いた とのこと。
その網を破って逃げたとも 閉じ込めるのは可哀想と わざと破れ目を描いたとも言われているとか。
確かに 何箇所か破れ目がある。
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
・客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
中離宮から三叉路まで松並木を戻り 右に曲がって東山に向かう。
緩やかな上りが続く砂利道は「御馬車道」とも呼ばれ 馬車の窓からの眺めを遮らぬよう 両側の松は低く仕立てられている。
上りきって振り向くと 京都市内が見渡せる。
上離宮の門を入ると更に急な石段が続き 刈り込み越しに池を見ながら上り詰めた所に建つのが「隣雲亭 りんうんてい」。
前庭からは「浴龍池 よくりゅうち」と呼ばれる池や「万松ウ ばんしょうう」と呼ばれる中島が見え 長く続く「西浜」の木々が池に映る様子が美しい。
「万松ウ」の「ウ」は 土ヘンに烏。
隣雲亭深い軒下のたたきは 漆喰に小石を一つ、二つ、三つと埋め込まれていて 「一二三石 ひふみいし」と呼ばれている。
赤い石は鞍馬山から 黒い石は鴨川からのもの。
欄間は 富士に花菱。
隣雲亭の脇に 変わった形の石灯籠があった。
隣雲亭の石灯籠
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
・浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
「隣雲亭の石灯籠」の脇を通り石段を下ると 落差6メートルほどの「雄滝 おだき」があり その手前に「滝見灯籠」と呼ばれる石灯籠が見えた。
上離宮 滝見灯籠
池の東岸に沿って進むと 「楓橋 かえでばし」と呼ばれる木の橋が見え 中島へ渡ることが出来る。
浴龍池には中島が二つあり「千歳橋 ちとせばし」と呼ばれる変わった形の橋で繋がれている。
この橋は創建当初には無く 1800年代に京都所司代より寄進されたもので 他の二つの橋とは全く趣が違っている。
「楓橋」を渡って中島を上り「窮邃亭 きゅうすいてい」と呼ばれる茶屋の前を通り 下ったところに「土橋」がある。
欄干は栗の木で 「手斧削り ちょうなけずり」という技法で作られている。
土橋の右手奥は「紅葉谷」で 近くには 「三保ヶ島」が見える。
西浜から見る「土橋」は 緩やかな反りを見せて美しい。
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
・楓橋、千歳橋、土橋
御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
土橋を渡り浴龍池の北岸を進むと御舟屋が見えたが 今は工事中。
3月10日追記
修学院離宮にお電話して教えてもらった。
「御舟屋の近くには 崩家形(葛屋形)灯籠があります。」とのこと。
工事中で足場が組まれていたので 見落としてしまった。
更に進むと船着場があり 大きな石は舟を停めるためのもの。
対岸にあたる門を入って左手すぐの場所にも船着場があった。
200メートルほどもあるという西浜は 浴龍池を作るために谷川をせき止めた土堤に石垣で四段に土留めをした部分で 真っ直ぐに伸びている。
右手には大刈込が続き 左手の池越しには 窮邃亭、御腰掛、隣雲亭などが順に見える。
中島に見える御腰掛は 白地に赤い水玉模様のドレスを召されたダイアナ妃も腰を下ろされた場所。
上離宮の参観を終え松並木を戻り 振り返ると西浜の下の大刈込が見える。
直線と曲線を描く刈り込みが美しい。 木々の間の細い通路から 長い刈り込み鋏で作業される とのこと。 200メートルという距離の長さと足元の急な斜面での手入れの大変さを想像し その作業を何百年も続けてこられたことを思い 感動。
何度も振り返りながら松並木を下り 下離宮の御幸門の前に出て 参観はおしまい。
修学院離宮
下離宮
表総門
御幸門、御輿寄
寿月観
袖形灯籠、朝鮮灯籠、櫓形灯籠
中離宮
楽只軒
客殿 霞棚
キリシタン灯籠、埋け込み灯籠
上離宮
浴龍池、隣雲亭
楓橋、千歳橋、土橋
・御舟屋、御船着、御腰掛、大刈込
山寺灯籠、滝見灯籠
仙洞御所の参観に行ってきた。
仙洞御所は 後水尾上皇の御所として京都御所の東南に建てられ 1630年に完成した後 庭園も作事奉行であった小堀遠州が作庭。
寺町通の清和院御門から御所に入り 左に曲がると大宮御所の正門があった。
参観許可証のチェックを受けて 左手の参観者休所で待機してビデオを見る という段取りは桂離宮などと同じ。 御常御殿前の御車寄の前で ご案内の方の諸注意を伺い 御庭口へと向かう。
潜り戸を抜けてお庭に入ると北池が広がり ヤブツバキが咲いていた。
大きな切り石を六枚ピタリと並べられた「六枚橋」の辺りは「阿古瀬淵 あこせがふち」と呼ばれている。 付近に紀貫之の邸宅があったことから 紀貫之の幼名「阿古久曽 あこくそ」に由来するとのこと。
北池の周囲を 幾つかの石橋や土橋を渡りながら廻り 「紅葉橋」と呼ばれる土橋を渡って南池の「八ツ橋」に向かう。
「紅葉橋」の左手に見えるのは「紅葉山」で 右手に見えるのは「鷺の森」。
その右手には「雄滝」が見え その右手に見える大きな平石は 小野小町と大伴黒主ゆかりの「草紙洗石 そうしあらいのいし」と呼ばれている。
南池の西岸にある洲浜の手前から中島へは 藤棚で覆われた「八ツ橋」が架けられていて このお庭の見所の一つだが 残念ながら藤の芽は動いていなかった。
洲浜の桜は満開で しばらく撮影のための時間がとられて 参観者はそれぞれ記念撮影など。
洲浜に並ぶ丸い石は 「石一個に米一升」として揃った形の石を十一万一千個集められたもので 「一升石」と呼ばれているとか。
「八ツ橋」で渡る中島には 大きな石灯籠が二つ見えた。
一つは 足の長い雪見灯籠で 水戸藩より献上されたと伝えられている。
足の長さは修学院離宮で見た「山寺灯籠」のようだけど 笠石が大きいので雪見灯籠。
修学院離宮の「山寺灯籠」
桂離宮の雪見灯籠とは 随分と形が違っている。
桂離宮の「雪見灯籠」
もう一つは 修学院離宮の「櫓形灯籠」と呼ばれている石灯籠に似た形で 笠石が家の屋根のような形をしている。
修学院離宮の「櫓形灯籠」
今回参観を申し込んだのは 南池の南岸にある「醒花亭 せいかてい」の織部灯籠を見たかったから。
目指す灯籠は 醒花亭の北側の庭にある蹲踞の脇に立っていた。
竿石のふくらみ部分には何も見えなかったが 下部にはレリーフが少しだけ見えている。
蹲踞は自然形の石が使われていた。
醒花亭の東庭には もう一つ石灯籠が見えた。
加藤清正が朝鮮から持ち帰り献上したので 「朝鮮灯籠」と呼ばれている。
修学院離宮にも 「朝鮮灯籠」と呼ばれる石灯籠があったが 形は全く違っている。
修学院離宮の「朝鮮灯籠」
「又新亭 ゆうしんてい」と呼ばれるお茶室は 1884年に近衛家から献上されたもので 大きな丸窓と小さな石灯籠が見えた。
四つ目垣の外からしか眺めることが出来なかったが 埋け込み型の灯籠で笠石に特徴があるように見えた。
元の御車寄まで戻り 参観は終了。 烏丸通の蛤御門から出て 帰宅。
一月、二月、三月と三度出かけたが 最後にもう一度大和郡山に行ってきた。
ツバキ展は三月が多く その頃に咲く花しか並ばないので 晩咲きのツバキを見る機会は少ない。
ハウス内で栽培されている椿寿庵さんなら この時期に晩咲きのツバキが咲いているだろうと思い 最後のお買い物も兼ねて行ってきた。
ハウス内は暑いくらいで 期待通り 「九重」「淀の朝日」「朝日大手毬」「弁慶」「鴇の羽重」など晩咲きのツバキも咲いていた。
「八重日光」「千代の春」「百路の日暮」「潅花絞」「狩衣」など 欲しかった苗もあり 満足して今シーズンのお買い物も終了。
早速 晩咲きのツバキをアップしたが 二月に撮影した画像が まだたっぷりと残っている。
秋咲きのツバキが咲くまでに 少しずつアップしていこう。
今日でツバキ見物はおしまいにしようかと思ったが 植物園のツバキ園にも 久し振りに行ってみようかな。
今年の春は あちこちのツバキ展に出かけたり 娘一家が大阪転勤になったりで 慌しい日々が続いた。 そろそろ落ち着いて ツバキのリストも整理しなければ・・・
「200種のツバキがある」と 昨日の新聞で見て 拝見に出かけた。
桜吹雪の中 参道を上ると 大きな御神木。
立て札には 以下のように書かれていた。
「御神木」
樹齢600年とも800年とも言われ 当社創建以来今日まで残る 最も古いものの一つである。
樹種 : ツブラシイ
樹高 : 15メートル
胸高幹周 : 4.8メートル
枝長 東西 : 25メートル 南北 : 30メートル
京都市では幹周り最大級の老椎であり 京都市景勝地植樹対策委員会より 巨樹名木の一つに指定されている。 平岡八幡宮
平岡八幡宮は「花の天井」も有名だけど 残念ながら撮影禁止。
拝殿前に掲げられた写真を写してきた。
拝殿脇のヤブツバキは「平岡八幡藪椿」と呼ばれて 花糸の色に特徴があるようだが 近くに花が見えなくて 確認することはできなかった。
境内には他にもたくさんのヤブツバキがあり 満開の桜と共に眺めることが出来た。
花壇のルドベキアやボルトニア、千日紅、ハマナデシコなどで 大きな花束を二つ作って お墓参り。
長い石段を 孫娘が花束を持って上がってくれた。
今年の花文字は 「念仏」。
でも 作業中で 前の花入れには花が少なく 「念仏」の周りにはホースで水を入れられていた。
山から下りてカキ氷を食べると そばの棚に可愛いちりめん細工の品々が並んでいた。
孫娘が「お手玉」を欲しがったので 五つ買って帰った。
ところが しばらく遊ぶと縫い目がほつけてきた。
サイズも小さめだったので これは飾って眺めるための物かもしれない。
「いつか おばあちゃんが丈夫なお手玉を作ってあげるね。」
うっかり口にすると 「すぐに作って!!」
仕方が無いので 近くの手芸用品屋さんで「ペレット」という詰め物を買ってきて 着物の端切や可愛い模様の風呂敷などから選んだ布で 作り始めた。
一時間近くかかって やっと一つできた。
「ずいぶん時間がかかった・・・ 一時間で一つしかできなかった・・・」
「おばあちゃん 大丈夫よ! 一日は24時間もあるのよ!」
そうね 24個も作る訳ではないものね。
ばあちゃんは~ 夜なべをして~ 頑張ろうかと思ったが ブログをアップしたら眠くなってきた・・・
初めて 10000歩を超えた。
桂離宮の往復は 手ぶらで手を振って早足で歩くと30分ほどなので ちょっと物足りなく感じるようになった。
今日は雨の予報だったので 昨日 広い道路の歩道をかなり遠くまで行って 大回りで帰ってきた。
64分で 7406歩。 さすがに疲れた。
歩道なので歩きやすく安全だけど 誘惑が多い。
自販機や喫茶店は数多く 和菓子、洋菓子、ラーメン、パスタ、お好み焼き、ハンバーガーにドーナツ・・・
空腹でも足が痛い訳でもないけれど 焼きたてパンのいい匂いには 思わず足を止めたくなった。
地図上を順にクリックしていくと距離が分かるサイトで調べてみると 大回りコースは4キロメートル。
桂離宮往復は 2キロ。
3キロくらいのコースをあれこれ探しているところ。
真っ赤に色付いているモミジがあったので スーパーに行く前に撮影に寄った。
散歩の時には荷物があると歩きにくいので 携帯やハンカチ、小銭入れなどはポケットに入れている。
重いデジカメは 自転車で出る時しか持てない。
今日は ネットで調べた3キロコースを歩いた。
45分で5000歩あまり。 それほど疲れることもなく ちょうどいい感じ。
四人の孫のうち三人が同じ頃にインフルエンザにかかった。
治まってから聞いたので よかった~と安心。
高い熱が出たが タミフルやリレンザですぐに治った とのこと。
一番小さい孫娘は お兄ちゃんから貰わなかったみたいで ちょっと心配。
かなり広がっているようで 幼稚園も小学校も学級閉鎖や学年閉鎖だと聞いた。
ワクチン接種を嫌がって受けないおじいさんも 軽く済むなら早めにかかった方が安心かもしれない。
「松花堂ツバキ展」の画像は 全部アップし終えた。
次は「京都府立植物園ツバキ展」の画像だけど 今年は講習会でお話を聞く時間が長かったので 撮影は少ししかできなかった。
アップはすぐに終わりそうだけど 五十音順や花色・花形別ファイルへの振り分けは 溜まっている。
鉢棚のツバキの蕾がふくらんできているので 急がなくては・・・
大仙公園は仁徳陵と履中陵の間にあり 公園に入る前に向かいに見える仁徳天皇陵を拝見。
「もずみみはらなかのみささぎ」と 読むらしい。
教科書などで見るのは上空からの写真だけど 間近に見ると山にしか見えない。
上空からの写真が飾られていたので撮影していると 歴史に詳しいグループが来られて いろいろ教えてくださった。
前方と後円のつなぎ目あたりに見えるのは「造り出し」と呼ばれ そこで祭祀が執り行われたとのこと。
築造されたときには盛土の上に大きな葺石が敷き詰められていて 日を浴びて輝く様は壮観だった らしい。
その後 手入れが行き届かなくて木が生い茂り 今のような状態になってしまった とのこと。
「陪ちょう」についても事細かく聞かせていただいて ちょっと怖くなった。
堺市の大仙公園に ツバキを見に行ってきた。
昨日お電話してみると 「今年は開花が早くて もう50鉢ほど飾っています。」
行かなければ!
朝は小雨が残っていて無理かと思ったが 洗濯物を軒下に干し終わった頃に止んだので 折畳の傘を持って とにかく出かけた。
日本庭園に入ると ツバキの鉢が並べられていた。
建物の中にも飾られていて かなりの数。
頑張って撮影していると 「今日咲いた花ですよ。」と 新しい鉢を運んでこられた。
聞けば 庭の奥の方で管理されているようで 見に行くと 広い通路の両側に沢山の鉢が並んでいた。
「咲いた鉢を次々飾ります。 肥後ツバキも沢山あります。」 とのこと。
また 見によせていただきます。
たくさんのツバキを見て満足して帰ったら もっと嬉しいものが届いていた。
東京の孫息子からのお手紙と 写真の入ったUSBメモリー。
「おじいちゃん おばあちゃん しゃしんをみてください」
Sくん ありがとう!
堺にツバキを見に来たら 利休さんの「椿の井戸」もぜひ拝見したいと思い 屋敷跡へ向かう。
あまり広くない屋敷跡には 「椿の井戸」と石灯籠があるだけ。
千利休が茶の湯に使ったと伝えられる井戸には ツバキの炭を底に沈められていたので 「椿の井戸」と呼ばれている。
井戸屋形は 利休ゆかりの大徳寺山門の古い部材を用いて建てられている とのこと。
「椿の井戸」の左手には 石灯籠が三つ見えた。
背の高い春日型のようなものと雪見灯籠、もう一つは「織部灯籠」かと思ったが 竿石のふくらみは無かった。
蹲踞の脇に低く埋け込まれていて 笠石や火袋の形などは似ているように思ったのだけど 前後の四角い窓は見えたが 左右には丸や三日月の窓は無かった。
利休さんのお庭にあったものなのかどうかも よくわからない。
晴れたので「服部緑地」にツバキを見に行こうと思ったが 火曜定休のようなので 堺の大仙公園に行ってきた。
前回は南宗寺さんで織部灯籠を拝見したが 堺には もう一箇所「キリシタン灯籠」と呼ばれている石灯籠のあるお寺があった。
西ルイスのお墓がある本受寺さんの奥庭に 目指す石灯籠がひっそりと立っていた。
大きく伸びた南天の脇には 蹲踞も見えた。
こちらの石灯籠の竿石には 左右だけでなく前後にもふくらみが見える。
アルファベットの組み合わせ文字もあり 下にはレリーフも見える。
火袋の窓は 前後が四角で 左に丸窓 右に三日月。
竿石のふくらみは 桂離宮の織部灯籠は左右のみ 曼殊院門跡のキリシタン灯籠には前後左右の四方に円盤状の突起が見えた。
アルファベットの組み合わせ文字は 桂離宮のものと似ているように見えた。
マリア像ともお地蔵さんとも言われるレリーフは 桂離宮では足元まで見えなかったが こちらの石灯籠には はっきりと見えている。
両足の爪先が外を向いているので ガウンを羽織った宣教師の像とも言われているらしい。
確かに お地蔵さんの足は衣で隠れていたり 見えていても爪先は揃って前を向いている。
そういえば 南宗寺さんの方丈前庭の織部灯籠のレリーフも ガウンの裾の下に両足が見えている ようにも見える。
あけましておめでとうございます
楽しかったお正月も 今日でおしまい。
お泊りしていた東京の孫たちも明日から幼稚園が始まるので 帰っていった。
四月からは一年生になるので ランドセルを買いに行ったり 習っている空手の形 平安初段などを見せてくれたり・・・たのしい思い出をたくさん残していってくれた。
二歳になった孫娘も可愛くなっていて デジカメを構えるとポーズをしてくれた。
なかなか会えないけれど・・・
写真を見ると頬が緩み 心が温まる。